8月も半ばを過ぎ、ここロンドンも夏のホリデーシーズン真っ盛り。食をテーマにした旅は、イギリスでも人気。フランスやイタリア、スペインはもちろんのこと、近頃はベトナムや日本といったアジア方面も、新聞や雑誌で特集が組まれているのをよく目にする。でもその反対に、日本から、食だけを目的にしてイギリスへ訪れる人は、残念ながら少ないのでは。パブで食べるモダンブリティッシュ、アフタヌーンティー、老舗ホテルのイギリス式朝食程度が、観光定番のフードでしょうか。しかし、ここ数年、この店へ行くためだけに、わざわざイギリスを訪れるというレストランがある。
『Fat Duck(ファットダック)』。シェフ、ヘストン・ブルメンタールが率いる三ツ星店。科学を駆使したレストランとして、世界に名を馳せているので、ご存知の方も多いのでは。
ファットダックは、大雑把に分類すれば、確かに、“科学系"と呼ばれるタイプに属するのかもしれないけれど、実際は、独自性が強く、脳の働きや五感といった“マルチ感覚"をテーマにしたレストラン。
う〜ん、とは言っても、いったいどういうもの?と思われる方も多いでしょうが、このテーマを解説するとなると、これはもう、膨大なページを割くことになるのでここでは失礼して、今回のコラムでは、これまで雑誌でもあまり取り上げられていない、ファットダックの「実験キッチン」について書こうと思う。
従来の調理にはなかった新素材や器具を取り入れたり、学者とのコラボレーションといったレストランの特性上、下準備や調理をする通常の厨房のほかに、研究を目的とした場が必要となる。ファットダックではそれを「Experimental Kitchen(実験キッチン)」と呼んでいる。専属のスタッフは、料理人3名とリサーチャーのほか、大学の研究学生や食業界の開発部長、他レストランからの実習生らが随時参加している。食つながりとはいえ、違ったタイプの人が情報を持ち込んで、アイデアが常に活性化されているのが分かる。
コラボレーションする専門家のバリエーションが豊かなのも、ファットダックの特徴かもしれない。
脳や食の科学者はもちろんのこと、心理学者、味覚の専門家、香水の調香師、そして、一番新しいところでは、手品師!というのがある。(これはまだ実験段階だけれど、レストランのメニューの中に手品が登場するのも、そう遠くないかもしれない)。そんな専門家や研究所とタッグを組んで、新しいアイデアをいかに料理へ落とし込むか、その活動の最先端にあるのが、この実験キッチンだ。
このほかにも、膨大なメディア対応(なにしろ、テレビ出演も多い)から、食イベントでのデモンストレーション、出版物の制作準備(10月には待望の大型レシピ本が刊行される予定)などなども担っている。元来、ひとつのレシピを作り上げるのに最低でも1年がかかるのだから、考えただけで、その仕事が多岐に渡り、かつ、すこぶる量であるのが想像できる。
「たしかに、ここでは、忍耐力が一番大事かもしれません」
こう話すのは、実験キッチンすべての料理人やスタッフを統括する、シェフのカイル・コノートン氏。アメリカ出身で、9歳の時、すでに料理人になることを決意したという。高校時代よりレストランで仕事を始め、「California School of Culinary Arts」にてディプロマを取得。その後、リッツカールトンの製菓部門や、料理学校コルドンブルーアメリカのシェフ兼講師を務め上げている。そして、2003には北海道・洞爺湖の『ミシェル・ブラ』へ。野菜部門シェフを担った後、2006年よりファットダックの実験キッチン専属シェフとして勤務している。
「通常のレストランの厨房は、朝入ってランチの準備をし、営業が始まる。休憩があって、今度はディナー。後片付けをしたら、その日一日が終了。そして翌日、またこれが繰り返される。でもここでは、ひとつのプロジェクトは数ヶ月から数年越しで、それがいくつも同時進行している。しかも、どれもがかならずしも成功へつながるとは限らないし、何年も費やしたアイデアが、最後は失敗で終わることも少なくない。だから、とにかく、辛抱強さが一番求められる能力だと思う。
手を使った作業のほかに、知識や感性、クリエイティビティー、ひらめき力なども要求される。いろんなバックグランドの人々との交流が多いから、コミュニケーション力も必要だし、加えて、僕はみんなのタイムキーパーでもあるから、スケジュール管理もやっていて、遅れているプロジェクトチームには『早くやれー』って、ハッパもかけなきゃならない。シェフだけど、PRでもあり、タレントのマネージャーようでもあるよ(笑)。でも、毎日が新しいことの連続。ここは、どんな立場のスタッフだろうと、誰もが同じように発言できる環境にあるから、画期的なアイデアが渦巻いている。厨房としてはかなり特殊で、だからこそ、ここでしか得られないものがたくさんあるね」
通常の厨房が、日々の料理を、高いクオリティーでコンスタントにつくり出す“心臓"ならば、この実験キッチンはまさに、レストランの“脳"だろう。
そして先日、ファットダックは、もうひとつの“脳"を手に入れた。
この「実験キッチンNo2」は、新テーマを専門に開発するためのもの。そのテーマとは“歴史"。400年前に遡ってイギリスの古典料理を掘り起こし、それを、ファットダックならではのアレンジで提供する。
しかし、最先端のイメージのあるこの店が、なぜ、昔の料理を?
「古典料理には、ハッとさせられる斬新なものがたくさんあるんですよ。それも、ウィットに富んだものだったり。ファットダックの哲学とつながっていると思うのです」
実験キッチンNo2には、シェフのほか、元ペンギン出版の編集者が、専属のリサーチャーとして勤務する。彼の仕事は、膨大な歴史資料を読み込むこと。それのみ。
昔話にもあるように、一人より、三人の知恵。多くのスペシャリストが才知を集めた時に生まれる“何か"には、計り知れない可能性が潜んでいるはずだ。
実験キッチンは、60年パリのカフェのようでもあり、大学の自由な討論の場であり、間違いなく、クリエーションの現場である。
★The Fat Duck
http://www.fatduck.co.uk
【筆者よりご挨拶】
「来月より一時産休に入るため、コラムをお休みさせていただくことになります。復帰までに、また、たくさんのネタを温めておきます。」